田中良和 グリー株式会社 代表取締役社長 どんな人物なのか? 経歴をご紹介!!

  

 

SNSサービスでおなじみのGREEを開発し、その運営を手がけるグリー株式会社の創業者であり、代表取締役社長を務めるのが田中良和さんです。携帯電話で行えるゲームで一躍人気を博し、テレビCMも積極的に行うなど、現在のスマホゲームアプリの宣伝にも影響を与えています。

 

1977年2月18日生まれ、令和元年に52歳を迎えた田中良和さんは東京都三鷹市で生まれました。普通の会社員だった父、母、妹の4人家族だった田中さん、勉強さえしていれば後は何も言われない放任主義の中で育ち、中学校までごく普通に育ちます。この時からゲームが大好きでファミコンで遊び、漫画を読み、ゲームセンターにも足を運びながら、一夜漬けを駆使して成績はいつもトップクラスの少年でした。

高校になると、それでは通用しないことを知り、一夜漬けから一週間漬けに切り替え、最初のテストで下から数える方が早かった中ですぐに上位に食い込みました。ファミ通よりも新しいゲームソフトの情報が早いという理由で日本経済新聞を読み、他の記事を読んでいくことで意識が高まり、段々とゲーム熱は冷め、それから、インターネットに興味を持つようになります。

 

インターネットとの出会いはアメリカへの語学留学をした時。ここでインターネットの無限の可能性を知り、日本に帰ってきてすぐにパソコンを購入し、インターネット関連のベンチャー企業を訪ね歩くことに。同じようにインターネットの可能性を見出した同志と一緒に掲示板の運営やホームページの作成を行うなど、お互いに切磋琢磨する関係性を構築します。
日本大学法学部を卒業すると、インターネットサービスの仕事に就きたいと、現在のSo-netに就職。しかし、経営戦略セクションに配属されるなど田中さんが思っていた仕事ができなかったことで、単にインターネットを扱うところではなく、インターネットベンチャーへ行きたい熱が強まり、早々に退職します。
そんな折、友人の紹介で楽天に入ります。当初は営業マンとしての予定が、インターネットサービスの開発への仕事を言い渡され、田中さんが求めていた仕事に出会うことができました。ブログやアフィリエイトなど令和の時代には当たり前とされたサービスを、田中さんはプログラミングを覚えつつこなしていきます。
2003年、サービス向上に向け研究を重ねていたところ、アメリカで流行していたSNSに注目。この当時は2ちゃんねるなど匿名性のあるコミュニティサイトが流行し、社会現象になっていました。しかし、アメリカのSNSは実名で投稿するなど、日本と全く違う様子でありながら、それでも可能性をかなり感じさせるものだったため、その勉強を始めます。それがGREE開発につながります。

 

当初、GREEは休日に開発を行う、いわば趣味のようなものでしたが、すぐにその評判は広まり、リリース後1ヶ月で会員は1万人を突破、年内に10万人に達するなど大きな注目を集めます。とはいえ、楽天社員との二足のわらじはしんどく、1人でこなすには大変ということで、楽天を辞め、学生時代にインターネットの夢を語り合った仲間を引き連れ、グリー株式会社を立ち上げます。それが2014年12月のことでした。
最初の1年は会社とはどういうものかすら分かっておらず、すぐに現実を突きつけられながらも採用などを重ね、1年後にはしっかりとした組織を構築します。さて、掲示板などのサービス以外にどんなサービスをしていくべきか、そんな話になった際、子供のころに楽しんだゲームを思い出し、携帯電話でインターネットにアクセスする人が多いことに着目し、携帯電話でSNSを利用してもらうことに着目。その一環がゲームです。
ゲーム好きの田中社長、ゲームのクオリティにも力を要れ、自社で作ったゲームを大量にリリース。アイテムを課金させるビジネスを構築したことで、売り上げは一気に急上昇、一躍IT業界のトップランナーへ駆け上がります。
東証一部にグリーが上場した時、田中さんは33歳、史上最年少の上場した創業者となるなど、その勢いは素晴らしく、アメリカの経済誌フォーブルが発表する長者番付にランクインし、日本の億万長者として知られる存在になります。現在はスマホゲームへの移行がそこまで進んでおらず、苦戦を強いられていますが、学年順位が底辺クラスだったところから、冷静に分析して勉強方法を変え、すぐに上位に持ち直した田中さんならではの修正力に期待です。

 

最後に、実は経営者を目指していなかった田中さんの真意についてご紹介します。起業家になりたいわけではなかった田中さん、その気持ちはいいサービスを作りたいという思いを大切にしています。起業はあくまで手段。大事なことは常にがんばり続けること、好きなものでいいからとにかくがんばり続けることを若い人に説いており、少しでも好きになりそうなものを見つけ、それを好きになるようにがんばっていく。インターネットの可能性を見出し、その思いに支えられ愚直に仕事を続けた田中さんならではの考え方です。

 

ZOZOTOWN 前澤友作 代表取締役社長 どんな人? 経歴や実績を公開!

 

2019年のお正月にはTwitterで100名に100万円をプレゼントするなど、奇想天外なキャンペーンを行うのが、ファッション通販サイト「ZOZOTOWN」を運営するZOZOの創業者、前澤友作さんです。生まれ故郷である千葉県を愛する前澤さんは、ZOZOTOWNがある幕張に住む社員に対して幕張手当を渡すなど、独特なやり方が話題を集める一方、世間から批判を浴びせられることも多々あります。

 

1975年11月22日生まれ、令和元年には44歳になる前澤友作さんは、千葉県鎌ヶ谷市で誕生します。一般的なサラリーマンの父を持ち、その長男として誕生し、中学時代は地元の小学校中学校に通う、ごくごく普通の少年でした。近くには直売所があり、そこでは鎌ヶ谷市でよく採れる梨が売られており、少年時代はそれをよく買って食べていたとのことです。

早稲田実業高校に進学すると、音楽に目覚め、出席日数がギリギリになるまで音楽活動を行います。アルバイトも積極的に行い、バンド練習の費用やアメリカへ旅行するための費用を捻出、高校を卒業すると半年間アメリカを旅行します。帰国すると、アメリカで買ってきたレコードなどを販売し、これが商売になると踏み、1995年、20歳にしてレコードなどの通販ビジネスに乗り出します。

 

ZOZOTOWNの前身、2018年まで社名だったスタート・トゥデイを立ち上げたのは1998年、同じ年にバンドがメジャーデューを果たすなどこの時はまだ現在のようなアパレルに手を出していませんでした。アパレルに手を出すのは2000年の10月、カタログ通販で行っていたものをオンライン通販に切り替えます。実はこの時、システムなどを業者に発注するも思ったような仕上がりにならず、自ら専門書を購入してシステム開発を行い、収益率を格段に向上させています。自前でやる精神はこの成功体験から来ていることが言えます。現在の千葉県千葉市、幕張に移転するのは2001年1月のことです。

 

2001年になると、バンド活動と経営者の二足のわらじが難しくなり、立ち上げ当時のスタッフがどんどん辞めていくことで一念発起、いったんバンド活動はお休みし、経営者として専念します。セレクトショップが増え始めた2004年に社名の由来にもなる「ZOZOTOWN」を開設、当初はスタッフが大好きなブランドに営業をかけるなどしてセレクトショップの数を増やします。

 

2007年には株式上場を果たすなど勢いがつき、2010年にはヤフー株式会社と業務提携、2011年にはソフトバンクと香港に合弁会社を設立、また中国にも100%子会社を設立するなど、ワールドワイドに活動範囲を広げます。
前澤さんの特徴は、トラブルを逆手にとって注目を集める手法にあります。それを象徴するのが2012年の送料無料です。当初は、ZOZOTOWNの送料が高いと消費者が声を上げたところ、そのつぶやきを見た前澤さんがTwitterで反論を展開し、炎上してしまいます。東証一部に上場しているスタート・トゥデイの株は下がっていったことで、一転して前澤さんは全面的な謝罪を行い、11月には送料無料を打ち出します。
今までになかったことをするのも前澤さんの特徴であり、特に有名なのがツケ払いサービスです。本来、商品を購入すれば代金を支払ってから受け取る形が一般的ですが、この支払いを最大2ヶ月遅らせ、支払う前に商品を手にできるというものです。中身を見た上でお金を支払えるという画期的なメリットを打ち出し、当時大きな注目を集めますが、このツケ払い、事実上の信用販売にあたると批判も。画期的なサービスを打ち出す中で批判がつきまとうのが前澤流でしょう。

2016年には千葉マリンスタジアム命名権を取得しZOZOマリンスタジアムになります。実はこの挑戦は2回目で、2011年の時は同じく幕張に本社があるQVCジャパンに敗れており、そのリベンジを果たした格好です。

冒頭の幕張手当同様、千葉愛にあふれている前澤さん、2018年にはプロ野球球団を持ちたいと表明し、大きな注目を浴び、その2ヶ月後には月旅行の計画に賛同し、契約を行います。2019年1月には100人に100万円のお年玉をプレゼントする企画を行うなど、知名度的にも多くの人が知る存在となりましたが、この時期から経営に多少暗雲が立ち込め、今に至ります。令和になり、苦境に立たされた前澤さんの起死回生の一手に注目です。

 

最後に、前澤さんのポリシーについてご紹介します。企業理念として「世界中をカッコよく、世界中に笑顔を。」を掲げており、人が幸せで平和であることに貢献できる会社にしようとします。このきっかけとなったのが2001年に発生した同時多発テロです。この当時はバンド活動と経営者の二足のわらじの時期で、経営者として専念する時期を前後します。何のために企業活動を行うのか、漠然と考えていた前澤さんが同時多発テロを通じ、あの企業理念にたどり着きます。単に売り上げや利益を目標にするのではなく、人を幸せにするために何ができるのかを考え、実行に移す。奇抜な発想や画期的なアイデアの数々はこうした企業理念を下敷きに実行されていることは明らかです。

三木谷浩史 楽天証券ホールディングス会長

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楽天の創業者であり、楽天証券ホールディングスで会長を務めるのが三木谷浩史さんです。サッカーチーム「ヴィッセル神戸」、野球チーム「東北楽天ゴールデンイーグルス」のオーナーも兼務する他、世界的にとても有名なFCバルセロナの取締役も務め、三木谷さんが大枚をはたいて世界的に有名な選手の招聘に動くなど、積極的な介入も話題を集めます。

1965年3月11日、令和元年には54歳となる三木谷浩史さんは、神戸大学名誉教授である三木谷良一の次男として生を受けます。良一さんがアメリカの大学の研究員になったことで2年間アメリカ過ごし、1977年岡山の私立中学に進学します。しかし、ここで挫折を経験することに。寮生活を行い、スパルタ教育が肌に合わず、1年で退学し地元の公立中学校に転入します。この時に経験したことが三木谷さんの原動力になったと言われています。

 

高校時代はテニス部に属し、1984年に一橋大学に入学すると金融論を専攻しつつ、テニス部の主将を務めます。卒業後は日本興業銀行、現在のみずほ銀行に入行します。この間、ハーバード大学MBAを取得するなど、スキルを磨いていき、1995年に日本興業銀行を退職します。退職のきっかけがその年に起きた阪神淡路大震災で、故郷の街が一瞬にして壊れていき、この震災で親戚を亡くしたことも人生に影響を与えます。
退職後はコンサルティング会社を設立し、1997年には楽天の前身となる企業「株式会社クリムゾングループ」を立ち上げますが、このクリムゾンはハーバード大学のシンボルカラーであり、ハーバード大学時代の話はメディアで数多く登場します。ちなみに楽天の名前の由来は設立した年に開設した楽天市場からつけられていますが、元々は織田信長楽市楽座がベースになっており、1999年に楽天株式会社に変更されます。楽天命名する際には三木谷さん以外全員反対する状況でしたが、これを押し切り、今の名前となりました。

ヤフーの成功を受け、2000年には株式を公開し、インフォシークを買収して子会社化、ブログサービスの提供などを行いつつ、各事業を企業買収などで子会社化するなど、ヤフーの後を追いかけていきます。

2002年になると、三木谷さんは30代にして3000億円ほどの資産を有する富豪として世界で紹介されるなど青年実業家の最大の成功例としてメディアからの注目を集めます。また、故郷神戸のことは忘れておらず、2003年には当時低迷していたヴィッセル神戸を買収するなど、スポーツ分野にも参戦を果たします。この2003年には楽天証券の前身、DLJディレクトSFG証券を買収、翌年には楽天証券株式会社となりました。DLJディレクトSFG証券は株式売買手数料完全自由化に伴って誕生したネット証券であり、電話で証券マンに売買を指示する、もしくは窓口で購入するという意識を覆させる画期的なものでした。

ただ、楽天証券は当初トラブルが頻発し、システム障害で行政処分を受けるなど状況はよくなく、2009年までに3回の行政処分を受けましたが、現在はシステムを強化し、システム障害が起きにくい状況を作り出しています。
三木谷さんの名前を一躍有名にさせたのが2004年、当時の近鉄オリックスとの合併を発表、近鉄買収を画策していたライブドアに対抗する形で楽天も参戦を表明。経済界にも顔が広く、信頼を集めていた楽天にかなりの分があり、参入が認められます。
楽天証券ホールディングストップとしての三木谷さんについてですが、買収当時の株式市場は想像を絶するほど酷い状況で、この年の4月には日経平均株価が7,607円をつけるバブル後最安値に。その後何とか持ち直しますが、楽天が買収をした時にはまだ10,000円程度、その先行きを不安視する声もありました。
しかし、小泉内閣行財政改革の影響もあって株価は上昇、買収から2年で投資に使った費用はすべて回収するなど、ネット証券におけるキープレイヤーとなっていきます。先を見据えた三木谷さんの判断が結果的に楽天証券での成功につながります。反対意見をしっかりと情報として取り入れ、最終的には自分で判断する、しかも、相談を持ちかける相手はその業界を知らない素人。結果論で手のひらを返す専門家があまりに多いために、専門家への信用がほとんどないことの現われですが、それが柔軟な判断につながっていることが言えます。

 

 

最後に、三木谷さんが考える最大のリスクについてご紹介します。経済番組に出演した三木谷さんは、阪神淡路大震災での経験から人生は1回限りで有限資源であることを悟り、その中で、リスクは食っていけないことではなく後悔することと発言しています。失敗を恐れるのではなく、挑戦せずに結果的に後悔することの方がリスクなのではないか、阪神淡路大震災で親戚を亡くすなどの体験をした三木谷さんならではの考え方です。その当時、必要性をあまり感じられない分野に積極的に参入し、成功を収めていく。三木谷さんだからこそなしとげられたサクセスストーリーではないでしょうか。

似鳥昭雄 株式会社ニトリホールディングス 代表取締役会長

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北は北海道、南は沖縄まで国内500店舗以上、台湾中国などで世界100店舗以上を展開するなど、家具の小売業ではトップクラスの株式会社ニトリ、その株式会社ニトリなどを束ねる株式会社ニトリホールディングスのトップ、代表取締役会長を務めるのが、創業者である似鳥昭雄さん。1972年の設立から一代で一気に成長させた手腕は経営者なら誰もが憧れるところです。


1944年3月5日生まれ、令和元年には75歳を迎えた似鳥昭雄さんは、当時日本の領土であった樺太で生まれ、戦争が終わると北海道札幌市に移住します。実家はコンクリートを製造販売する会社を営んでいましたが、似鳥さんは家業を継がず、北海学園大学を卒業後、広告の会社に就職します。しかし、仕事が全くとってこれなかったこともあって半年でクビになると、23歳で似鳥家具店、のちの株式会社ニトリを創業します。複数の店舗を借金でをして構える中、その近くに大型の家具屋ができたことで苦境に立たされる似鳥さん。

 

ターニングポイントになったのは、アメリカで行われた家具研修ツアーでした。1970年代、高度経済成長期で終戦の焼け跡から復活し、各個人の家庭にテレビなどの家電が並び始める時代でしたが、アメリカに行ってみると日本とは比べ物にならないほどアメリカは豊かであることに気付かされます。日本はまだ貧しい、そう気づかされた似鳥さんは、この研修ツアーで人生観が変わりました。30年でアメリカ並みの豊かさにする、似鳥さんが29歳のことでした。この30年というのは、最初の10年は信用を作り、次の10年は人、最後の10年はアメリカレベルの立派な商品を作るというものです。
株式会社ニトリが急成長を見せたのはデフレスパイラルに多くの企業が苦しんだ1990年代末期ですが、実はバブルと呼ばれた時期にすでにその兆候を感じており、本州進出を目論むもあまりに土地の値段が高いということで、手付金を無駄にしてでも出店を中止。土地の値段が転がり落ちるように下がっていくようになり、ここがチャンスと出店を開始します。

この出店の戦略は10年後、20年後を見据え、どのようにそのエリアが動いていくのかを予測し、勝負をかけます。人が変われば店も変わるということで、店の中も定期的にチェンジを行い、古くなればいったん潰して再び新しくする作業に取り掛かります。常に先手を打ち続ける姿勢は人材教育にも示されており、ある年は新卒採用などの新人を全員アメリカに連れていき、ラスベガスのカジノで勝負させます。仕事で大きな賭けをしたがり、勢いだけでやろうとすれば失敗に終わることを身をもって体感させることが狙いです。

30年連続増収増益、バブルやデフレ、リーマンショックなど様々な浮き沈みがありながらもそれを克服してきた株式会社ニトリ。しかし、似鳥さんは利益第一主義ではダメだと言い、お客さんの立場を忘れてはいけないことを説きます。日本人の生活を豊かにしたい、その積み重ねた結果が30年増収増益という揺るがない実績でした。
例えば、すでに市場に出ているような商品でも、既存の商品が高いと分かればそこに切り込んでいくのがニトリスタイル。この商品ならいくらだと気軽に買えるのかを徹底的に調べ、値段を決めます。次にその値段になるために何をすればいいのかを調べ、形にしていくだけ。プロセスは大変ですが、リスクを負うことでチャンスが必ず出てくる、しかも、他の企業がやらない分、それだけチャンスはある、似鳥さんがずっと持ち続ける考え方です。

 

一代で一気に急成長した会社の特徴として、社長以外全員反対でもそれを実行するというのがあります。西武グループ堤義明さんが代表例ですが、似鳥さんもその1人。渋谷への出店の際には、リスクが大きいと周囲は反対の声が大きかった中、それを押し切って出店にゴーサインを出しました。反対されればされるほどそこにチャンスがあるというある種逆転の発想で物事を考え、あっと驚くことを実現させていきます。
2019年は消費税増税を控えるなど経済的なトレンドはあまりよろしくないですが、それでも似鳥さんはその時こそがチャンスだと主張します。その理由は建築地の高騰。近年は建築費が高騰しており、投資をするには不向き、だけど、景気が悪くなれば投資がしやすくなり、出店スピードを上げられる、他が勝負に出ればニトリは出ない、他が守ればニトリは勝負に出る、逆張り的な発想で30年増収増益を達成したというわけです。
最後に、似鳥さんの目指す数字についてご紹介します。似鳥さんの車のナンバーは3000にしているんだとか。この3000は、2032年に3000店舗にするという目標からつけられています。家の様々なところに3000という数字を貼って、意識を高める似鳥さん。国内だけではなく海外で大きく出店数を稼ぐ狙いがある他、新たな事業に乗り出すなど、似鳥さんの飽くなき挑戦は75歳になった今も衰えず、1人のプレイヤーとして最前線に立ち続ける日々です。

野中正人 株式会社しまむら 会長

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ファストファッション業界で店舗数は日本一、全国各地に存在し、ショッピングモールへの出店にも積極的な株式会社しまむら、2018年年末まで会長を務め、体調不良を理由に現在は退いている野中正人さんがこの路線を引っ張ってきました。

1960年7月22日生まれ、令和元年には59歳を迎える野中正人さんは群馬県の出身です。中央大学の法学部を卒業し、1988年に株式会社しまむらに入社します。当時のしまむらは埼玉県東松山市を中心に活動し、野中さんが入社する少し前に埼玉県大宮市、現在のさいたま市に本社を移転し、1988年には新商品センターや東証二部上場を果たす状況でした。この新商品センターはいわゆる物流体制の拠点となる場所であり、店舗を先に増やすのではなく、物流体制を整えるところから始めていました。

しまむらは1923年埼玉県の小川町で島村呉服店を創業したところから始まっており、島村恒俊さんが創業者です。野中さんが入社した時にはまだしまむらの社長を務め、陣頭指揮にあたっていました。後に野中さんの前任藤原秀次郎さんがこの路線を引き継ぎ、徹底的に合理化を進めます。例えば、すべての作業がマニュアル化しているのもしまむらならでは。これを読み込めばつい最近入った新卒社員でも店長の仕事ができ、その鮮度は常にアップデートされていることから新鮮そのもの。このようなシステムが出来上がっていく中で後に野中さんは社長と会長を歴任します。

野中さんは出世を続け、1998年には商品四部長に、1999年には経理部長を務めます。この当時のしまむらは別路線の店舗をいくつもオープンさせ、靴を売るお店、服飾雑貨の専門店、ベビー用品を扱うお店など増やし、野中さんは経営体力をチェックする部分からしまむらの躍進を見届けています。1990年代末期は競争が激化し始めた時で、既存のスーパーがしまむらに対抗しようとし、その結果、しまむらがあおりを受けます。その答えが既存のしまむらとの差別化、そしてショッピングモールへの参加でした。
同じファストファッションブランドで最大のライバルであるユニクロは、自社で商品を開発し、それを製造、販売するなど、一貫したシステムが安さの秘訣と言われています。しまむらにはそのようなものは持ち合わせておらず、いかに安く質のいいものを買い入れられるか、ここが大きなポイントです。そのため、しまむらには「4つの悪」というルールがあり、その4つの悪を追放することをバイヤーに公約しています。

 

その1つ、返品は、たとえどんなことがあったとしてもバイヤーに返品せず、必ず売ることを心がけます。赤黒伝票は、一度切った伝票を書き換えてあたかも売り上げがあったかのようにする手法をしないことを宣言しています。また商品を仕入れてから値引きの要求はしない、発注をかけた場合にはどんな状況になってもキャンセルはしないというものです。こうすることでバイヤーが安心して取引に応じてくれ、安く質のいいものを仕入れられるようになったというわけです。結果的に経費率もユニクロに比べて低く、利益に直結する体質になっています。

野中さんの経歴の続きですが、2003年には取締役に就任し、人事部、総務部、経理部を統括する立場となり、その2年後、ついに代表取締役社長になります。この時には沖縄県への進出を果たしており、全都道府県にしまむらが存在する状況となっていました。デフレ時代の勝ち組と呼ばれ、景気が悪化し、デフレスパイラルに突入した中でも結果を出し続けた時代に野中さんは社長になります。この少し前から推し進めていたのがトレンド性のある商品の提供です。質のいいものを安く売る、これがしまむらの特徴でしたが、ダサさが出てしまい、しまむら=安い、ダサいというイメージになっていました。トレンドを強く意識し、リサーチを徹底する、野中社長の時代に行われた取り組みです。しまむらの服でコーディネートする「しまラー」がブームになったのも野中さんの功績と言えるでしょう。

 

最後に、野中さんが語っていた「野望」についてご紹介します。野中さんは将来的に銀座に出店したいと語っていました。銀座はファストファッションで注目を集めるなど、しまむらとは本来相性がいい街です。その一方、全都道府県に出店するなど郊外を中心に展開したことで、都内が疎かになっていた面があり、日本全国どこでもしまむらの服が買えるようにという思いがあります。
しまむらは現在苦境に立たされ、なかなか目標である3000店舗の出店にかなり近づいたとは言いがたい状況です。それに加え、2018年2月に会長に退き、2018年の年末には自ら辞任を申し出るなど、これまでの体制が大きく変わるかもしれません。後任は野中さんの先輩であるとともに、現在も創業者の島村さんや藤原さんはご健在、みんなでしまむらを支え、発展に寄与するという思いは共有されています。1日も早く体調が回復し、再びしまむらを引っ張っていくことを切に願うばかりです。

孫 正義 ソフトバンクソフトバンクグループ代表取締役会長兼社長

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総資産は200億ドル、およそ2兆円をはるかに上回るなど、世界が誇る大富豪の仲間入りを果たしたのが、ソフトバンク創始者であり、現在はソフトバンクグループで代表取締役兼社長を務める孫正義さんです。現在はアメリカの携帯電話事業者「スプリング」、中国で勢いがすごい「アリババ」などの会長や取締役を兼務するなど、その活躍はワールドワイドです。


1957年8月11日生まれ、令和元年で62歳を迎える孫正義さんですが、その生い立ち、経歴は最初から輝かしいものだったとは言えません。佐賀県鳥栖市で生まれた孫正義さんは、在日韓国人で、密造酒の製造販売やパチンコ業などを行っていた実業家の次男として生まれます。その浮き沈みは激しく、生活が非常に貧しい時期もあれば、大変な裕福な時期もあったと言います。

高校に入ると、司馬遼太郎の小説「竜馬がゆく」に出会い、16歳でアメリカに留学します。この当時、孫さんの父親は入院中、稼ぎ頭である父親が入院で不安に襲われている中、留学を決意したことで、親戚だけでなく高校の担任などからも反発を受けました。しかし、坂本龍馬が脱藩を決意したように、大きく成長し、成し遂げてみせると反対を押し切ってアメリカに渡ります。

 

アメリカでは肺炎になりながらも絶対に授業は休まなかった程、最大限勉強を行い、アメリカならではの飛び級制度を活用し、すぐに大学に入ります。19歳の時、雑誌を読んでいた時に飛び込んできたマイクロプロセッサに目を奪われ、その後、孫さんは1日5分で1つの発明を実行、わずか1年で250の発明を達成しました。これを発展させるため、お金が全くない中、特許が売れ、その金額から給与を支払うという形で教授などを雇うという画期的なシステムで、プロジェクトチームを立ち上げます。
22歳にはシャープに商品を売り込み、1億円を手にすると、それを元手にソフトウェア会社を設立。時を同じくして結婚し、大学を卒業、日本に帰国を果たします。ソフトバンクの前身「日本ソフトバンク」を福岡で設立すると、パソコン関連の事業に手を出します。

 

一時期慢性肝炎を患ったことで一時的に会長に退くも、復帰を果たし、1987年には回線選択装置管理システムの特許を取得。回線選択装置管理システムとは、常に一番安い通信事業者を自動的に選んでくれるシステムで、通信自由化で新規参入した電気通信事業者、新電電からロイヤリティを徴収するビジネスモデルが成功を収め、日本ソフトバンクは急成長を遂げます。

1994年に株式を店頭公開すると、そのお金で企業買収や別企業への投資を展開、1996年にはアメリカのヤフー社と共同出資でヤフー株式会社を設立するなど、破竹の勢いを見せる一方、その年の6月、メディア王と呼ばれたルパート・マードックと共同でテレビ朝日の株式21.4%を保有したものの、反発を受けて翌年に売却。失敗と成功が交互に訪れるなど、激動の時期を迎えていました。

その後、買収と分社化を行いながら段々とグループを成長させていき、2000年にはトヨタ自動車に次ぐ第2位の株式時価総額を記録。2001年にはYahoo!BBのサービスを開始し、ブロードバンド事業へ殴りこみをかけると、ここで大胆な作戦を展開します。モデムの無料配布です。駅前でモデムを無料配布し、Yahoo!BBのお試しキャンペーンに参加できるようにさせました。このやり方は物議を醸し、詳細な説明がないまま、契約をするような形となるなど、かなりのトラブルも出ましたが、結果的にユーザー数は激増、インターネットの高速化の快適さを多くの人が知るようになり、2005年には単年度黒字化を達成します。
孫さんの一番大きな仕事がボーダフォンの買収とその後の展開です。買収金額は1兆7500億円とかなりの巨額でした。当時のボーダフォンは圏外が多かったことでドコモやauの牙城を崩せずにいましたが、Yahoo!BBの時と同様、半ば強引に基地局を立てるなどしてネットワークを増強、日本でいち早くiPhoneを導入するなど施策を矢継ぎ早に打ち出し、Twitterを利用し孫さん自らが意見を吸い上げるなど迅速な対応が目に付きました。
結果的に、ソフトバンクは信頼を獲得し、奇抜な施策やこれまでの携帯電話事業の寡占状態を打破するような動きを見せ、安く快適に利用できる環境を作り上げます。時にトラブルを起こすことはありますが、それもいかに安く便利に利用してもらうかの一環であり、携帯電話やインターネット利用料金が安くなるきっかけを作った人物であることは間違いないでしょう。

 

 

最後に、孫さんが19歳の時に掲げた夢をご紹介します。アメリカにいた孫さんは人生50年計画を立てました。20代で有名になり、30代で軍資金として1000億円、40代で一勝負、50代で事業完成、60代で事業を後継者に引き継ぐという夢です。60代となった孫さんですが、50代まではその夢をすべて果たしています。70歳を迎える2027年までにソフトバンクグループの後継者を見つけ、引き継ぐことは果たして可能なのか、そのあたりにも注目です。

佐治信忠 サントリーホールディングス代表取締役会長

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連結の売上高は3兆円に迫り、資産は4兆円、従業員は数万人単位、それでいて株式上場は一切しない、独自の経営スタイルで日本を代表する企業へと成長したサントリー。そのサントリーを傘下に置くサントリーホールディングス代表取締役会長を務めるのが佐治信忠さん。佐治さんは会長職だけでなく、公共広告機構でおなじみのACジャパンの理事長なども務めるなど、経済界では知らない人はいない存在です。

 

1945年11月25日生まれ、令和元年には74歳を迎える佐治信忠さんは、兵庫県出身です。父親はサントリー2代目社長の佐治敬三さんで、その長男として生を受けます。実際に恵三さんが社長に就任したのは1961年、佐治さんが16歳の時です。
祖父はウイスキーに情熱を注ぎ、父はマーケティングに力を入れるなど、サントリーを成長させていく中、幼少期の佐治さんにはある強烈な体験が。それはサントリーの宣伝部のエースで後に作家となる開高健さんの存在です。マーケティングや宣伝に力を入れていた関係で、開高さんも佐治家に足を運んでは食事などをしていたようです。その中で、開高さんは責任はしっかり果たさなければならないと何度も語るなど、後の佐治さんの礎となる姿を見せていました。

 

1968年慶應義塾大学経済学部を卒業すると、アメリカに留学。帰国後はすぐにサントリーに入社せず、別の企業で会社員を務め、1974年晴れてサントリーへの入社を果たします。その後、1982年に取締役に就任し、1989年には副社長に。そして、2001年、サントリーの社長に就任すると、初の外部社長となる新浪剛史さんにバトンタッチするまで、13年間社長を務めます。

サントリーが大事にしてきたものに、「やってみなはれ」という言葉があります。何事にもチャレンジすることが大切という創業者からの教え、口癖であり、サントリーのホームページには、やってみなはれだけでなく、「やらなわからしまへんて」という言葉まで。やってみなさい、やらなきゃわからないから、そんな意味合いの言葉を佐治さんは大切にし、近年この精神が薄らいでいることに危機感を抱いています。そのためにも、チャレンジしやすい環境作りに力を入れ、多少言葉は荒くても檄を飛ばし続ける、それもこれも「やってみなはれ」精神を社員に発揮させるためです。
佐治さんが「やってみなはれ」精神を発揮したのが新浪さんの起用です。新浪さんもまた慶応義塾大学経済学部を卒業しており、佐治さんとは先輩後輩の間柄。2005年にはローソンの代表取締役社長を務めるなど、ローソンの成長に一役買い、その実績からサントリーの社長として白羽の矢が立ちました。100年以上創業家から社長や会長を出していたにもかかわらず、外部の人間を起用する、まさに「やってみなはれ」の精神ですが、次世代の人材が成長していないという辛辣な思いもそこには含まれています。
2013年、社長を交代する意向を示し、にわかに後任人事への注目度が高まります。当初、創業家からの起用を考えていたものの、この年にアメリカの大手メーカーであるビームの買収で1兆円以上の費用がかかることから、それどころではなくなったと強調。これも「やってみなはれ」精神の1つではあるものの、創業家の人材がまだ頼りないことを突き付けた形になりました。

 

もう1つ大事にしている言葉が「利益三分主義」です。利益の3分の1は社会に還元、もう3分の1位はお客様などに還元、残りの3分の1は事業資金にするという考え方です。利益を自分たちだけで独占するのではなく、社会貢献を通じて成長していく、それがサントリーの基本であり、佐治さんが大切にするマインドです。
佐治さんは本音の論客と呼ばれるほど、その発言はストレートで切れ味抜群。2012年には、経営者は物価を上げなければならないと言いながら安売り競争をし、結局経済は良くならないと発言しています。2019年、物価は上がりながらもなんだかんだ安売り競争が続くなど、その言葉は7年後の今にも通じる言葉です。また景気が悪い時の増税は問題とも語るなど、消費税が10%になることを見据えたかのような発言を行っています。
最後に、佐治さんの父敬三さんへの想いをご紹介します。父は学者タイプだったと語る佐治さん。好きな部分は「なぜ」を5回聞くぐらい理論的なところで、何が何でも成功させてみせる執念を感じたそうで、佐治さんもそれを受け継いでいます。敬三さんが始めたビール事業でサントリーは生まれ変わった一方、なかなかビールで結果を出せず、長い間低迷してしまいます。それを変えたのがザ・プレミアムモルツを世に送り出した佐治信忠さんです。父がやりたかったことを息子が実現させる、それが創業家の物語と言えます。新浪さんが引き継ぎ、自らは会長を務めますが、創業家に再びバトンを渡し、新たな創業家の物語を紡ぎ出すことはできるのかどうか。佐治信忠さんの檄はまだまだサントリーにとって必要不可欠であり、それが必要なくなる時、やってみなはれ精神が従業員にしっかりと浸透したことを示すことでしょう。