合同会社NextOne 大根一晃

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IT企業も地方で起業することができるような時代となっており、人口減などの過疎に悩み、財源で苦しむ地方都市からすると大変ありがたい存在です。千葉県の中でも財政がとても苦しい銚子市においてIT企業である合同会社NextOneを立ち上げたのが代表を務める大根一晃さんです。1978年生まれ、41歳の大根一晃さんは千葉県銚子市の出身です。専門学校を卒業後、20年近くデザイン関係の会社で働いていた大根さん、地元銚子に戻り、地元のIT企業で働いたのち、独立を果たします。高校時代同じ剣道部に属し、前職が建築関係のデザインなどを行っていた同級生と一緒に立ち上げること。銚子市にホームページ制作の会社が少なかったことも後押しにつながったようです。


3人で切り盛りをする大根さん、3人では限界があるため、銚子市やその周辺に住むクリエイターと共同で作業を行っており、足りないところはカバーできている状況です。銚子市ではあまりホームページ制作などに明るい人が少ないため、見積もりを出すとその値段に驚かれることもあるようですが、大根さんは細かなところまで説明を行い、対応を行っています。現状は広告宣伝にお金を使わず、口コミで広がっているような状況です。これはひっそりと続けていくという思惑があるためです。


銚子市は人口減少などが進み、危機的な状況を迎えていますが、それでも需要はあると考える大根さん。その需要に対する供給がほとんど追いついていないことから、まずはその需要に全力で応えてから次のフェーズに進むことを考えています。銚子市は高速道路を使っても結構な時間がかかり、電車でもなかなかな距離、時間が必要です。そのため、物理的なデメリットも多くみられる一方、お客さんとの距離が近く、近い距離で話し合いができるというのも魅力の1つです。地元の青年会議所に所属し、地元とも近い距離間で仕事をしているのもポイントです。


大根さんの年収ですが、大手企業の会社員ぐらいにもらっているという感じではなく、現状では1000万円を超えないような状態で仕事をしている可能性が高いです。しかし、活動が全体的に評価されるようになれば、流れは大きく変わることが考えられるので、これからの頑張り次第と言えそうです。銚子の状況が好転するような奇跡、ムーブメントを巻き起こすことができるのか、そこまでできるようになれば、相当な貢献ぶりでしょう。

岩下食品株式会社 岩下和了の経歴、資産、年収すべて公開致します!

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岩下の新生姜でもおなじみ、酢漬け分野では日本一のシェアを誇るなど、日本を代表する漬物の製造販売会社としてもおなじみの岩下食品株式会社。その会社で代表取締役社長を務めるのが岩下和了さんです。1966年生まれ、54歳を迎える岩下和了さんは栃木県栃木市の出身です。岩下食品の創業は明治時代の1899年、祖父が地元で野菜などを売り始めたことから端を発します。岩下さん自身は音楽鑑賞が大好きで、洋楽を教えてくれた兄を追いかけるように慶應義塾高校慶應義塾大学へと進学します。この当時、兄が家を継がないことを宣言したことで、自動的に岩下さんにその順番が回ることになります。それもそのはず、長男は日本銀行に勤め、長男であっても日本銀行なら仕方ないと雰囲気になったからです。


そんな岩下さんも経済学を学び、慶應義塾大学を卒業後は住友銀行に就職、4年間働いた時、岩下食品がCMを打ち出したことで、今のうちに入っておかないと跡で大変になると思い、26歳で岩下食品に入社。父の下で働き、2004年には社長になりますが、父親もあり、なかなか大胆な手を打てなかったところ、病気で亡くなってしまったため、大胆なことを行っていきます。


岩下さんはTwitterなどSNSを積極的に活用しており、岩下の新生姜が多くの人に愛されていることに気付きます。そのつぶやきをした人に返信を書いたことでさらにその数が増え、ファンを大きく増やします。また父親がやっていた美術館のスペースに新生姜ミュージアムを立ち上げ、奇抜なアイデアをどんどん打ち出していきます。結果的に年間で10万人以上の人がわざわざ栃木にまで足を運ぶようになります。入場料は無料、決して黒字にはならない場所でありながらも、新生姜ファンに少しでも還元しようとする姿勢は、今の時代に通じており、それまで知名度がほとんどなかったような会社を有名な会社に押し上げることに成功しました。


岩下さんの年収ですが、社員の平均年収がだいたい400万円程度のため、岩下さんの年収は2000万円以上の可能性があります。元々100年以上続く会社の経営者であるため、財産はそれなりにあることが推察されます。新生姜関連の商品はコンビニなどでも売られ、様々な商品が製造販売されています。これまでなら一笑に付されたものでも、積極的に取り組む姿勢はさすがの一言です。まさに時代に寄り添った企業と言えるでしょう。

榎本善紀、京楽産業社長の経歴や年収、実績など詳しくご紹介!

新型コロナウイルスの影響もあって、苦境に立たされながらもなんとか踏ん張って、前を向き続けるパチンコパチスロ業界。その中でも大手に属するメーカーに京楽産業株式会社があります。その京楽産業株式会社において、現在社長を務めているのが榎本善紀さんです。榎本善紀さんといえば、奥さんがあの伊東美咲さん!美女を奥さんにした榎本善紀さん、経歴や年収実績などをまとめました。

榎本善紀さんの経歴について

榎本善紀さんの経歴について

榎本善紀さんは1968年9月27日生まれで、今年で52歳を迎えます。出身地は愛知県名古屋市、父親は京楽産業株式会社で代表取締役会長を務めている榎本宏さんです。父親の宏さんが仲間と一緒に立ち上げたのが今の京楽産業株式会社です。第二次世界大戦で敗れ、旧日本軍の兵士だった父親の宏さん、戦時中の仲間だった人物と一緒に立ち上げており、この時、宏さんは海運業を営んでおり、パチンコ業界に転身を図ります。その後、京楽は勢いをつけて成長を重ね、様々なヒット機種を世に送り出します。

一方、榎本善紀さんですが、高校は愛知県立鳴海高校です。今でこそ京楽は人気メーカーでしたが、榎本善紀さんが高校生だった当時はまだそこまで有名ではなく、有名な機種も世に送り出せていません。そのため、社長の息子だから入れるような立派な高校ではなく、愛知県の県立高校へ入ることになります。その後高校を卒業すると、榎本善紀さんはユニオンという会社に入ります。

パチンコで大事な玉の自動補給、これを担う会社であり、元々は京楽の関連会社です。いわゆる修行、下積みの一環としてユニオンに入社した榎本善紀さん。その後、1995年、榎本善紀さんが27歳の時に親会社である京楽産業株式会社に転籍し、1998年委は取締役、そして、2006年、37歳にして代表取締役社長に就任しました。

榎本善紀さんの年収はいくらぐらい?

榎本善紀さんの年収はいくらぐらい?

泣く子も黙る京楽産業株式会社の社長である榎本善紀さんの年収ですが、株式上場など客観的なデータがあればよかったものの、それがないため、推測となります。京楽産業株式会社の全盛期は、発売する台が飛ぶように売れており、業績もうなぎ上り。榎本善紀さんの年収も数千万単位であったことが考えられます。それを裏付けるように、榎本善紀さんと伊東美咲さん夫妻の新居が東京都内に建てられることになった際、父の宏さんが10億円の豪邸をプレゼントしました。しかも、この10億円、宏さんが現金でドンと支払ったというのですから、榎本家、創業家でかなり儲けている可能性が高いです。そのため、榎本善紀さんもそれなりの資産を築いているかもしれません。最近は売り上げも落ち、2000万円、3000万円あたりではないかとささやかれていますが、100歳に迫る勢いを見せる宏さんが亡くなった場合、莫大な遺産が入ってくる可能性もあり、今後年収や資産に劇的な変化が生じる可能性もあるでしょう。

榎本善紀さんの実績はある?

榎本善紀


榎本善紀さんが社長になったのは2006年8月のことです。この時には多くの有名機種を発売しており、CRぱちんこ○○シリーズがどんどん発売され、現在もシリーズとして続く、ウルトラマンウルトラセブン水戸黄門冬のソナタなどは榎本善紀さんが社長になる前からありました。

榎本善紀さんが社長になってからは美空ひばりさん、アタックNo.1仮面ライダーなどキャラクターやタレント、有名人関連のパチンコ機種を生み出し、京楽が生み出したP-フラッシュ、エアバイブなどパチンコを打つ人を熱くさせる演出を数多く生み出し、他のメーカーに大きな影響を与えます。その後も、パチンコの新たな姿、続編のパワーアップなどどんどん勢いを増していき、2013年にはパチスロにも進出、ここでも人気を博するなど、京楽らしさを全開にしており、榎本善紀さんの実績といっても過言ではありません。

榎本善紀さんの今後はどうなりそう?

京楽の勢いは以前に比べると落ち着きを見せていますが、一方で京楽を支えてきた定番のシリーズを続々とリニューアルさせ、スペックの縛りが大変なパチンコ、パチスロの新基準に沿ったものを打ち出しています。多くの人に楽しんでもらえる台をいち早く作ってパチンカー、スロッターのハートをわしづかみにしており、今後もその流れは続くはずです。まだ50代前半、ここからさらに勢いを見せていく可能性は高く、榎本善紀さん、そして伊東美咲さんとの間に生まれた子供が後継者となるまで、榎本善紀さんの活躍は続くことでしょう。

まとめ

京楽の歴史は榎本善紀さん、そして、父親の宏さんが歩んできた歴史と通じるものがあります。最初から順風満帆だったわけではなく、ジワジワとポジションをつかみ、一気に花開いた様子はさすがの一言です。業界的に厳しい時代を迎えていますが、エンタメ系で力を入れる京楽、そして、榎本善紀さんの動向に注目です。

岩田進 株式会社イルグルム

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2019年に社名を変更した株式会社イルグルム。パソコン向けのインターネット広告の効果測定ツールというものがあり、この市場シェアで業界トップレベルにいる企業です。この会社で代表取締役社長を務めるのが岩田進さんです。1977年生まれ、43歳を迎える岩田進さんは大阪府の出身です。世界で活躍したい、これを目指して関西学院大学に入学した岩田進さんでしたが、大学の授業は世界で活躍するには物足りず、早々に休学します。休学して数か月で100万円を貯金し、バックパッカーとして世界を飛び回ります。そこで気付いたのは、仕事をやってスキルを高めれば世界で活躍できるようになること。これを受けて岩田進さんは飲食店経営などを若くして行いますが、うまくはいかず。これではダメだと岩田進さんはパソコンの組み立てなどからIT技術を学ぶことにします。


2001年に立ち上げた会社が今の会社ですが、全ての工程を自分1人で行うのはあまりにも無謀で、時に60時間も働き続けることもあったようですが、やるべきことが明確な分、苦労を苦労と思わなかったのだとか。当時、インターネットの広告はあまり出ていないような時代、いずれはその人の趣味嗜好に合わせた広告が出るようになると考え、EBiSというシステムを生み出します。現在でいうビッグデータのような形で、その人に見合った広告を表示させるという目的がありました。結果的にこれがヒットを飛ばし、インターネットの広告の効果測定の分野で不動のポジションを築き上げます。


2020年までは国内に集中し、それ以降は世界で勝負したいと考えている岩田進さん。2014年には東証マザーズへの上場を果たしましたが、シリコンバレーにおける資金調達のスケールは日本の数倍以上、規模も売り上げもまだまだ足りない、だからこそ日本の市場で確固たる地位を築かなければならず、このあたりが正念場です。


岩田進さんの年収ですが、2018年9月期の社員1人当たりの役員報酬は1400万円ほど
です。社長であるため、2000万円以上もらっていることが考えられます。岩田進さんは自社株を282万株保有しており、時価総額はおよそ30億円です。配当はありませんが、1円でも配当がつけばその時点で300万円近い配当がもらえるため、今後一気に年収を上げていくことも考えられます。世界で勝負できる企業にできるかどうか、2021年以降にも期待が集まります。

キューサイ株式会社 神戸聡の経歴、資産、年収すべて公開致します!

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青汁のメーカーとしてCMも大きな話題を集めたキューサイ株式会社。その会社で代表取締役社長を務めるのが、神戸聡さんです。1969年生まれ、51歳を迎える神戸聡さんは愛知県小牧市の出身です。父親は金属メーカーに勤め、鉱山のあるところを転々とする生活を過ごします。父親は世界中の鉱山を回り、神戸さんは日本で見守る生活になっていく中で、世界に目を向け、小学生の頃にはアメリカ大統領になりたいと思うようになります。世の中に残る仕事をしたい、夢こそ色々と変わりますが、その思いを子供のころから持ち続ける神戸さん。


広告代理店や化粧品会社で勤務をしてきた神戸さん、転職に際し、社会問題が解決できるところはどこかと探していく中でキューサイの可能性を見出し、入社します。最初に手掛けたのは、若者向けに青汁をアプローチするというもの。2017年に社長になった神戸さんは、カフェを開店し表参道に青汁のメニューを無料提供するなどし、1万人の集客を集めることに成功します。キューサイの青汁といえば八名信夫さんが、まずいもう一杯!とCMで言ったことで知名度を一気に上げたため、青汁はまずく、体にいいものというイメージがつきます。一方、ケールは時期によっては甘さがあることを神戸さんは知り、おいしくてもう一杯飲みたくなる切り口で青汁を売り出していこうと考えました。


2019年、キューサイはこれまでのイメージを一新、青汁だけしかないようなイメージを変えるべく、コーポレートアイデンティティの一新を行います。消費者のほとんどがキューサイといえば青汁を思い浮かべる一方、2019年の時点で青汁の売上は会社全体の売り上げの1割にも満たない状況の中では当然の判断と言えそうです。また医薬品通販へ参入を行うなど、様々な手を放つ神戸さん。それもこれも現在の顧客が60代以上であるため、その60代をつなぎとめる必要があるからです。これに加えて若者向けへのアプローチも忘れていません。


神戸さんの年収ですが、キューサイの平均年収が400万円程度であることを考えると、社長としての年収は2000万円程度の可能性があります。取締役の多くが退任して、そこから神戸さんが改革を推し進めてきました。改革の歩みを決して止めない中で、キューサイが次の世代に残すべきことは何か、それを模索していく中で新たな姿を見せていく事になるでしょう。

山口孝榮 アイテックインターナショナル株式会社 起業人

スキンケアやヘアケア、サプリメントなどを開発し販売しているアイテックインターナショナル株式会社。そのアイテックインターナショナル株式会社を立ち上げたのが山口孝榮さんです。1954年生まれ、今年で66歳を迎える山口孝榮さんは福井県の出身です。

1週間で大胆な決断

若い時からお金持ちになることを夢見て、そのために経営に関する勉強を熱心にしていたという山口孝榮さん、大学進学を果たしますが、入学して早々あることに気づきます。

経営を教える側の教授であれば経営者になれば立派な企業へと育て上げられるはず、なのに、それをしないのは果たしてどういうことか、そんな疑問を持ってしまいます。それを受けて山口孝榮さんは入学したにもかかわらず、わずか1週間で大学を中退することに。福井県の農家の息子として生まれた山口孝榮さん、幼い時から生活はあまり裕福だったとはいえない状況でしたが、裕福になりたい、お金持ちになりたいという気持ちは決して揺るがず、大学を辞めてからも努力を重ね、経営に関する勉強を行っていきます。

19歳で起業を果たすも

起業家としてデビューを果たしたのはなんと19歳の時でした。その後、山口孝榮さんが21歳、1975年の時にアパレル製造会社を設立します。会社そのものは大きくなっていきますが、予期せぬ出来事が起こります。

山口孝榮さんが取引をしていた会社が倒産をしてしまったのです。山口孝榮さんの会社は特に倒産しそうな状況だったわけではなかったものの、取引先が倒産したことで山口孝榮さんが若くして設立した会社は倒産を余儀なくされました。

1999年に山口孝榮さんが著書「ゼロから始めて成功をつかむ知恵―ビジネスには必勝のルールがある」の中で、親族から結構な突き上げを受けたことがわかります。まさにゼロからのスタートを余儀なくされる山口孝榮さんですが、むしろこの経験こそが成功のきっかけとなっていきます。

数多くの事業を手掛ける

倒産してから山口孝榮さんはすぐに再起を図ろうとしました。アパレル製造会社だった前の会社に捉われることなく、様々な事業に手を出していきます。

最初から立ち上げに参加した従業員はわずか3名、ほぼゼロといってもいいところから山口孝榮さんは不屈の闘志を見せます。

売り上げはあれよあれよと増えていき、最終的にわずか3年で売り上げが100億円に到達します。経営学を学ぼうとし、大学を1週間で辞めたものの、それでも諦めることなくつかんだ成功でした。

これで満足する男ではない

売り上げ100億円を達成した山口孝榮さんですが、売り上げが結構あるからそれで納得ということはしません。自分でもこのように裕福な生活ができるようになった、自分と同じように苦しんでいる人を少しでも助けたいという思いがありました。そこで山口孝榮さんはあることを思いつきます。それがフランチャイズビジネスです。儲かる仕組みを作ることが大事であり、コンビニエンスストアの時代が到来する、そのように考えていた山口孝榮さん、結果的にたどり着いたのがコンビニエンスストアとはまた別の、フランチャイズビジネスだったわけです。

単にフランチャイズに加盟するだけではいつまでもロイヤリティを支払うことになります。

ロイヤリティを支払ってから経費などを差し引いて余ったお金が収入や利益になるわけですが、ロイヤリティが結構高く、一生懸命頑張っているのに結果に結びつかないなんてことも出てきます。

フランチャイズに加盟する側ではなく、フランチャイズのトップに立ち、もらう側になればむしろ心強い、これが山口孝榮さんが考えたことです。実際にこのシステムは日本でもよく見られるますが、山口孝榮さんが考案したやり方は様々な経営戦略のメリットの部分だけを集めたようなものでした。

作り上げたビジネスは不動の存在に

山口孝榮さんが作り上げたフランチャイズビジネスは、在庫を必要としません。例えば、現在のアイテックインターナショナルでもフランチャイズビジネスが行われていますが、お客さんのために化粧品を用意する必要がありません。

本来であれば、メーカーから様々な場所を介して納品されていき、最終的に購入した消費者に届きます。しかし、これだといくつかの業者を通すだけでなく、メディア媒体に宣伝などをしていくうちに広告宣伝費がかかり、最終的に費用が高くなります。

そこで山口孝榮さんが考えたのはSNSの積極的な活用です。インスタグラムやフェイスブックTwitterなど情報を拡散できるツールは山ほどあります。商品を購入した人がその宣伝を行うことにより、広告宣伝を兼ねる形となり、広告にかける費用をそのまま利益に回すことができるというわけです。

あとはアイテックインターナショナルのことを知り合いにどんどん伝え、その人たちも参加するようになれば、紹介された側の頑張り次第で紹介した人の収入がどんどん増えていきます。体調を崩して働けないなどの場合でも、うまく稼ぐことができるようになります。収入の道もいくつも用意されており、同志を募れば募るほど相互的に頑張れるようになる、このシステムを作り出したのが山口孝榮さんの功績と言えそうです。

その後の功績もまたすごい

アイテックインターナショナルをはじめ、これまでに多くの会社経営を手掛けてきた山口孝榮さんですが、業種業態に関係なく様々なことを行ってきたからこそ、経営セミナーに呼ばれることも多いようです。

アメリカにある財団法人、世界学術研究アカデミーにおいて、日本人では史上4人目となる博士号を取得しています。

嫌われる勇気が200万部を超えたビジネス書の大手であるダイヤモンド社からも、「ゼロから始めて成功をつかむ知恵―ビジネスには必勝のルールがある」と、「新世紀「流通革命」―マルチメディアを武器に第三市場を開拓せよ」を出版しています。ここまでの功績を残した背景は様々あるでしょうが、若くして連鎖倒産を経験し、お金を儲けること、ビジネスで成功させることがどれだけ難しいかを身をもって体感できたことが大きいかもしれません。

最後に

なかなかインタビューに登場する機会がなく、ベールに包まれている山口孝榮さんですが、アイテックインターナショナルとして生まれ変わるまでの道のりには山口孝榮さんの手腕と製品開発に協力してきた大学教授の存在が大きくかかわっています。アイテックインターナショナルの主力商品であるマトリックスエキスなど、多くの商品がフランチャイズビジネスの成功に寄与しており、その熱は年々高まっています。今後は海外展開も視野に入れており、山口孝榮さんの手腕は今後も光り輝くことになりそうです。

清水舞子 株式会社祭

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クラウドファンディングサービスが一般的なものになってきた中、もう少し手軽に資金調達が行えるサービスとなると、なかなかうまくいきにくいのが実情です。そんな中、SNSを通じて少額からでも支援が行えるサービスがあります。その名もビスケット。このビスケットを運用するのが、株式会社祭の代表取締役CEO、清水舞子さんです。幼い時に両親が離婚して、母親に育てられた清水舞子さん、母親を喜ばそうと勉強をこなし、多摩美術大学に合格、家を抵当に入れてまで入学金を捻出してもらったものの、入学してから性被害に遭い、休学や復学などを経て中退、その後明治大学商学部編入します。


ところが、入学資金で貯金したお金を知り合いに騙し取られ、キャバクラで働き、捻出して編入を果たします。この経験から、同じ年代なのに、希望を見出せる人、そうでない人に分かれるのはなぜかと模索、時に夜回り先生のように立ち回るもこれでは限界だと感じ、プログラミングを学び、フリーランサーとしてデザイナーを名乗り、仕事に励みます。これが成功し、起業資金をためると、株式会社祭を立ち上げます。


ビスケットは、ビスケットを渡すような感覚で支援を行えるようにできるというもので、毎月の支援とリターンが不要である点が大きなポイントです。そこにあるのは信頼だけ、信頼してもらえる人に支えられる、その体験ができるというのが最大のポイントです。実際に利用するのは年齢も職業も様々、細々ではありながらも自己肯定感を得られるシステムは、今の時代にぴったりです。その一方、清水舞子さんは、キャバクラで働いていたという出自が良くも悪くも面白がられ、苦労は尽きないそうです。女性起業家の多くは、セクハラ、パワハラまがいの状況から身を削りながら投資してもらおうとする、その状況では未来の女性起業家が可哀想、今後は女性起業家を対象にした協会を作って、セーフティネットを作ろうと模索しています。


清水舞子さんの年収ですが、これから多くの収入を稼ぐという段階のため、まとまった金額はもらっていない可能性があります。ただ、ビスケットのシステムがすばらしく、今後発展する可能性も考えられます。女性活躍社会を目指すといいながら、実際はセクハラまがいのことがまかり通る世の中です。これを変えない限りはどうにもならず、清水舞子さんなど、今の女性起業家のがんばり次第であり、変わりつつあります。