アドジックス 藤末雅彦 代表取締役会長

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全国に展開するたこ焼きのチェーン店である「元祖どないや」。この元祖どないやを運営する株式会社アドジックスを創業したのが藤末雅彦さんです。

1976年11月1日、43歳を迎える藤末雅彦さんは、大阪府箕面市の出身です。株式会社アドジックスではたこ焼きのチェーン店だけに限らず、様々な事業を展開しています。

その中の1つはホテルの飲食事業です。価格や素材などに合わせて、メニューの開発から料理の提供まで一括で管理するのが特徴です。また、調理師など人材を確保しており、それをホテルに紹介したり、派遣を行ったりします。調理師はかなり重宝される存在であり、お店にとってはなくてはならない存在です。しかし、最近ではなかなか調理師の確保ができない状況が続いていますが、株式会社アドジックスでは人材を確保しており、調理師を紹介することも行っているので、とても助かります。ホテル事業がしっかりと行えるよう、飲食の部分で支えるのが株式会社アドジックスです。それの陣頭指揮をとってきたのが社長である藤末雅彦さんです。


藤末雅彦さんは株式会社アドジックスのホームページにおいて、共に歩む心というフレーズを前面に打ち出しています。先ほどのように調理師を紹介する、派遣するというのは、株式会社アドジックスが上に立っているような印象を与えますが、実際は様々な困難をクライアントと一緒に乗り越えるという姿勢を持っており、共に歩む心を大事にしていることを語っています。

一緒に乗り越えることで、共に成長できるという思惑もあり、共に歩む心は、株式会社アドジックスの基本理念にもなっており、社員教育の際にはこのあたりを徹底させます。
もう1つ理念としてあるのが、日々の成長です。常に新しいことを求められ、その重圧から新たな知識、発想を生み出していくというのは、段々とレベルを高めさせ、質的なもの、物量的なものでもクライアントを納得させるものとなるでしょう。

株式会社アドジックスに対する信頼に対し、100%ではなく、120%で応える努力を行っています。共に歩むだけでなく、共に成長をする気持ちがあり続ければ、お互いにとってプラスとなるはず。

それが株式会社アドジックスの基本的な理念として受け継がれていき、藤末雅彦さんだけでなく、多くの社員が受け継いでいます。

この理念は「元祖どないや」の方針にも表れています。味にこだわりを見せ、生地はもちろんのこと、たこ焼きの中に入れるタコやたこ焼きの方なども一切妥協をしていません。その証拠に、元祖どないやのたこ焼きはタレをつけずに、ソースもマヨネーズもなしで食べられると紹介されています。屋台などで売られているたこ焼きはタレなどをつけないと、味がなくて食べずらいものが多いですが、藤末雅彦さんが指揮して開発した元祖どないやのたこ焼きは味がしっかりとついており、そのまま食べてもおいしく、食べ方の工夫がしやすいものとなっています。それでいて、タコも結構大きく、食べ応えがあるので、学生にも大ウケ。そして、関西流のたこ焼きの定番である外側がふわっとしていて、中はトロトロという塩梅も元祖どばいや流とされています。


藤末雅彦さんにはとても遊び心があります。元祖どないやがオリジナルで作ったミックス粉を製作する過程において、漫才などを聞かせているというのです。笑い声をかけるなどして、ミックス粉に笑いを浴びせて、食を通じてお客様に笑顔を届けたいという藤末雅彦さんの思惑が隠されています。一見するととてもバカげたことをしていると思われるかもしれません。しかし、そのようなことをしてでも、笑顔をお届けしたいという気持ちがこの中にはあります。元々どないやの名前の由来は、堂々と自分たちが作ったたこ焼きだと自慢して振舞えるような誇りにあふれるような意味を込め、関西弁であるどないや!からつけられたものです。そのように言うには、様々なこだわりを経なければならず、藤末雅彦さんが作り上げたどないやのたこ焼きはその完成形に突入していると言えます。


そもそも株式会社アドジックスはいつごろに作られたかですが、平成19年、2007年7月のことです。当初からたこ焼きチェーンを手掛けてきましたが、たこやき一本でやってきたわけではありません。2010年には「浪花かすうどん むねひろ」というお店をオープンしています。東京にある田町にオープンしたお店で、大阪の南河内の郷土料理である油かすを使い、かすうどんなどを作りました。かすうどんだけでなく、釜揚げうどんなどもあり、夜は居酒屋としても機能します。「浪花かすうどん むねひろ」は当初株式会社アドジックスが出資をした形でしたが、現在はスリーナイン株式会社が行っています。スリーナイン株式会社は、株式会社アドジックスが100%出資している子会社であり、999万円の資本金が特徴的です。


ホテル部門の飲食についてご紹介しましたが、最近力を入れているのがアパホテル内に誕生した「AP GRILL」です。 「AP GRILL」は、2018年5月に誕生し、アパホテルの1階に作られました。場所は北新地や梅田からとても近い南森町駅の近く。アパホテルに宿泊する人向けに朝や昼、夜、いつでも利用できるような形にしてあります。オープン当初には、1杯が9999円という美と健康 燕の巣のドリンクを提供するなど、話題を集めました。食事に関しても健康的なものを多数取り揃えており、仕事が忙しくてなかなか栄養素が取れないという人でも簡単に利用できるような形にしてあります。このようなものに積極的に挑み続けるのが藤末雅彦さんの素晴らしいところです。
藤末雅彦さんが面白いのは、様々なタイアップに積極的なところです。特にすごいのは、あの矢沢永吉さんも出演したゲーム「リネージュ2 レボリューション」にタイアップをしたことです。このタイアップでは「リネージュ2 レボリューション」のゲームの世界をできるだけイメージしたコラボたこ焼きを販売しており、その名も「リネたこ」。たこ焼きに高級食材としておなじみのカラスミを使ったという何とも贅沢なたこ焼きです。当時、このリネたこを購入者した人は、iTunesカードやGoogleギフトカードなどが当たるキャンペーンを行っていました。

藤末雅彦さんの収入ですが、具体的にいくらかなどは明らかになっていません。ただ、社長と社員の平均賃金の格差はおよそ4倍程度とされ、社員の年収は400万円程度と予想されます。全国にチェーン店を構えていることを考慮しても、年収は2000万円以上の可能性が高く、役員報酬の平均を鑑みても3000万円程度もらっていたとしても不思議ではありません。また、藤末雅彦さんが元祖どないやなどを立ち上げた起業家でもあるので、それ以上もらっていたとしても不思議ではありません。資産に関しても同様で、それなりの財産を形成している可能性が高いです。

楽天市場では元祖どないやのたこ焼きを販売するなど、商売をどんどん仕掛けていく藤末雅彦さん。様々なものとタイアップしていく様子を見ても、広告代理店からの信頼などは厚いとみるべきではないでしょうか。

たこ焼きに対する情熱だけでなく、それ以外の事業展開も怠らず、結果的に全国展開する株式会社アドジックス。

藤末雅彦さんの手腕なしにはここまでには成長しておらず、藤末雅彦さんの一挙手一投足に大注目です。

 

山田邦雄 ロート製薬 代表取締役会長

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目薬で有名になったロート製薬は代々創業家一族が経営を担っていますが、そのトップにいるのが会長を務め、先日まで社長を兼務していた山田邦雄さんです。

1956年1月23日生まれ、現在63歳の山田邦雄さんは、大阪府の出身です。

1899年から続くロート製薬創業家出身であり、父親は先代社長である山田安邦氏。しかし、父親から後継ぎに関する話をされず、むしろ2代目社長である祖父の影響を強く受け、人と違うことをやれという精神を受け継ぐことに。

1980年にロート製薬に入社すると、10年間は現場で経験を積む毎日を過ごします。その一方、目薬や胃薬中心だったロート製薬からの転換を図らなければならないと考えるようになります。

1991年、35歳の若さで取締役、翌年には専務、1996年には副社長、そして創業100年を迎えた1999年、ついに4代目社長に就任。最初に行ったのは健康食品に関する通販事業で、その次が化粧品事業への参入でした。元々メンソレータムを買収したことで皮膚に関する研究を行っており、製薬会社独自の化粧品が作れるのではないかという邦雄さんの判断でした。

きれいな肌は健康な肌である、今までになかったアプローチ方法で化粧品を考え、当初は迷走しますが、現在もヒット商品として君臨する肌研シリーズにつながります。肌研シリーズ発売の少し前には、テレビでなじみ深かったロゴマークを大胆に変更するほか、ニキビ治療薬のブランドである「OXY」の商標権などを買収、2006年には漢方薬の発売を行い、その売り上げは当初引き継いだ際は500億円だったものが1670億円までに膨れ上がり、売り上げを3倍以上に押し上げました。

日本初、世界初の商品開発を多く行い、目薬や美容液などの開発を続けていく中、山田邦雄社長は創業100年以上を誇るロート製薬で初めての判断を下します。それが創業家以外の人に社長になってもらうことです。

2009年には会長に退き、社長に実権を握らせて、見守っていました。その後も順調に成長を続けていたロート製薬でしたが、社長が急逝。一時的ながら山田邦雄会長は社長を兼務し、2019年6月まで続けます。

急逝した社長の言葉を受けて、外部から社長を招聘し、再び会長としてロート製薬を見守ることになります。人と違うことをやれ、この精神は代々の社長が受け継ぎ、それぞれがそれぞれのことで社会貢献、会社の成長に寄与してきました。山田邦雄さんは、それまで誰も手が出さなかった部分に手を出し、会社を大きく成長させており、今後の展開に注目が集まります。

鈴木喬 株式会社エステー 取締役会議長兼代表執行役会長

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「ムシューダ」、「消臭力」など家で使っている芳香剤や防虫剤などを製造販売しているのがエステー株式会社。そのエステー株式会社で長らく社長として活躍し、現在は会長の座に就いているのが鈴木喬さんです。

1935年1月18日、現在84歳の鈴木さんは、東京都の出身です。父親は後にエステー化学初代社長を務める鈴木千蔵氏で、その家の四男として生を受けます。1959年に一橋大学を卒業すると、最初は日本生命に入社します。この日本生命では50代までおり、法人営業部第一課長などを歴任。のちのエステーとなるエステー化学に出向することになるのは1985年、53歳でのことです。

エステー化学へ出向後は、企画部長や取締役などを務め、1998年、63歳の時、代表取締役社長に就任します。社長時代には小州ポットや消臭力、脱臭炭などのヒット商品を開発し、2005年には歴代最高の純利益を達成、売上高は社長になってから20%増やすなど結果を出し続けます。その後、いったん社長を退任し、会長に就くとエステー化学からエステーへの社名変更を先導しますが、エステーリーマンショックによる不景気が襲い掛かります。伸び悩みを見せたことで再び鈴木さんが社長に復帰し、経営を立て直した後、また後進に道を譲り、会長として見守っています。

鈴木さんは自らがアイデアマンとして商品開発のヒントとなるものを社員にどんどん投げかけていくのが特徴です。当時芳香剤、消臭剤を販売し、その次は脱臭だとひらめき、商品開発を行います。この商品開発を行う人たちに対し、鈴木さんはあだ名をつけ、そのあだ名で表彰を行う一方、社員の名前は知らないというお茶目な一面を見せます。

偉い人とは話をしないと言い切る鈴木さん、現場の社員を中心に話を聞き、それを見ていた偉い人が慌てだすことで社内が活性化する、鈴木さんの本当の狙いはそこにありました。
現在、姪にあたる鈴木貴子さんがエステーの社長を務めています。日産自動車に入社し、ルイヴィトンジャパン系列の企業を経て、2010年にエステー株式会社に入社し、2013年に社長に就任しました。

元々父親がエステー株式会社の創業者だったため、本流の創業家一族が再び実権を握る形となっています。ただ、喬さんが会長としていることから、実質的には喬さんの意向が強く出やすいです。エステーを成長させ、トップダウンやチームワーク経営を織り交ぜながら、エステーを日本のトップ企業に押し上げたのは間違いなく鈴木喬さんの功績です。

古川俊太郎 株式会社任天堂 代表取締役社長

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これまでに創業者一族やカリスマと呼ばれた人物が社長を務めてきた任天堂。現在社長を務めているのが古川俊太郎さんです。

1972年1月10日、現在47歳の古川さんは、東京都の出身です。古川さんの父親はイラストレーターの古川タクさんです。教育方針として、1つでも秀でるものがあればいいというものがあり、古川さんはゲームを選び、ゲームに熱中します。幼いころは決してリーダーになるタイプではなかった古川さん、早稲田大学政治経済学部を卒業すると任天堂に入社します。
しかし、当時の任天堂は採用活動に関する公募を行っていませんでした。それでも古川さんは人事部に手紙を出して募集の有無を聞き、なんと合格してしまいます。入社してからの古川さんは経理を担当していた他、ドイツに約10年滞在するなど、ゲーム開発とは無縁のところにいました。しかし、ドイツ時代には当時のゲーム機「Wii」をヨーロッパでヒットさせたことで注目を集めます。


その後、古川さんは株式会社ポケモン社外取締役に就任するなど、出世街道に入ります。この時には将来的な社長候補と社内で判断されており、若くしてこの世を去った岩田聡元社長が亡くなった2015年7月から経営企画室長に就任すると、翌年には取締役を兼務。本来はもう少し先に行われる予定だった社長交代のタイミングは、Nintendo Switchの大ヒットで前倒しされ、2018年6月、任天堂の社長になりました。前任者の時代からトップである社長の判断だけで会社が動いていく状態を変える動きが出ており、各部門のトップの人たちが一緒に経営を行っていくシステムになっています。その結果、ゲーム開発を一切行ったことがなく、経理一本でやってきた古川さんが社長に就任することができました。


現状の任天堂は、Nintendo Switchの成功を受けて、Nintendo Switchのソフト作り、携帯できるNintendo Switch Liteの発売などに力を入れています。売り上げ目標2000万台やポケモンGoとの連動、ニンテンドーラボの発売など、着実に成果を残しており、最近ではeスポーツにも力を入れるものの、賞金が高額になりやすい大会ではない形で普及を目指します。


任天堂といえばファミリー向けのゲーム機を作る会社でしたが、一時期それが揺らぐ時期がありました。カリスマ社長に左右されることが多かった中、伝統は残しつつ、トップの考えだけで左右されない新たな仕組みを作る、その大役を担ったのが古川さんであり、起業として発展を続けていくには、ここからの頑張りが求められます。

青野慶久 サイボウズ株式会社 代表取締役社長

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組織内部のスケジュール、タスクの共有などを行うソフトウェアをグループウェアと言いますが、国内グループウェア市場の中で11年連続トップなのがサイボウズ株式会社です。

そのサイボウズ株式会社の社長は、青野慶久さん。仲間数人でサイボウズ株式会社を立ち上げ、青野さんは2005年に就任しました。
1971年6月26日生まれ、現在48歳の青野慶久さんは、愛媛県今治市の出身です。

大阪大学卒業後、松下電工に入社しますが、それまでのソフトウェア作りから一転、スコアボードを売る営業マンになります。ソフトウェア作りに向いていないと思っていたものの、当時ウェブ技術の発展スピードが目覚しかったことで青野さんは再びコンピューターに熱を入れだします。

新しい技術を使って、誰でも使いやすいグループウェアを作る、その思いが強まり、松下電工を辞めて、1997年にサイボウズ株式会社を立ち上げました。
インターネットが普及し始め、それに伴うサービスが急速に拡大した追い風に乗り、サイボウズ株式会社はわずか5年ほどで東証二部に上場を果たします。広告宣伝に力を入れ、売り上げの半分を使って全国紙に全面広告を出すなど、とにかく名前を売ることを心がけます。

2005年には青野さんは社長に就任し、企業買収を積極的に仕掛け、売り上げを数倍に増やし、順風満帆かに見えました。ところが、買収先の会社が赤字を出したことで黒字は大幅減、この時、青野さんは自分に社長は向いていないと落ち込みます。
落ち込んだ青野さんを救ったのは、前職の松下電工の創業者である松下幸之助さんの言葉でした。「真剣に志を立てよう、生命をかけるほどの思いで志を立てよう」という言葉は、それまで多方面に手を伸ばしていたサイボウズの方針をグループウェア一本に絞ることにつながります。世界一のグループウェアを作る、その方針が定まり、買収先の企業をほとんど売り払いました。
その後、サイボウズは国内シェアトップを獲得するなど順調に成長し、自治体ITシステム満足度調査で6年連続ナンバー1、導入社数シェア12年連続ナンバー1などを記録します。

多様な働き方を心がけ、100人いたら100通りの働き方があると考え、様々な制度を作りました。青野さんは、自ら育児休暇を取得する他、選択的夫婦別姓制度に賛成し、国を訴訟して正面から夫婦別姓問題にぶつかっていくなど、多様的な社会に向けた活動にも積極的です。働き方改革でようやく企業が重い腰を上げる以前から、すでに青野さんはその活動をしていました。今後どのような一手を打ち出すのか注目です。

山田昇 株式会社ヤマダ電機 代表取締役会長

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全国で1兆円以上を売り上げる家電量販店のトップランナーヤマダ電機の創業者は山田昇さんです。

1943年2月11日生まれ、令和元年で76歳を迎えた山田昇さんは、1966年、当時の日本ビクターに入社しますが、仕事ぶりが評価されなかったことで退職し、個人で家電を売る仕事を始めます。

家で使う、家電のメーカーを統一する家庭が少ないことに目をつけ、様々なメーカーの家電を売るという、当時としては異例の商売方法、安売りなどで成長させます。

全国展開を始めたのは1999年と遅く、その後は既存の家電量販店を買収して規模を拡大し、2005年、日本の専門店で初めて連結売上が1兆円突破、わずか6年で47都道府県への出店を達成します。リーダーシップを発揮して引っ張ってきたのが山田昇さんです。

山田昇さんは現在会長として、社長に仕事を譲りつつ、まだまだ現役です。役員報酬は2018年3月期で3億9800万円受け取っており、5期連続でアップしています。2012年の週刊現代では、山田さんの年収が23億5000万円、資産は985億円と紹介し、日本有数の資産家であることがわかります。

名言も数多く残されており、その中で「努力は人一倍する必要があるが、その努力も、可能性があってはじめて報われる。」というものがあります。

ガムシャラな努力は必要だが、その努力には可能性がなければならず、そこでようやく報われるという、多くの社会人、スポーツマンにとって刺さる名言と言えそうです。

山田さんの人物像ですが、長期的な視点で物事が見られる人物です。その証拠として、山田さんが会長に退いてから再び社長となり、後任を見つけてまた会長に戻る際、山田さんの息子を社長に据えませんでした。多くのケースでは、自分の息子などを後継者に据えるケースがほとんどですが、山田さんはそれを選びません。

実はこの当時、ヤマダ電機の勢いは落ちており、いつかは苦境に立たされることは目に見えていました。同族経営ではなく、優秀な人材を引っ張ってきてあてがう方が得策と判断し、息子を社長にせず、取締役にとどめさせています。この判断が冷静に行えるのが山田さんの特徴であり、決して情に流されないところも魅力です。


最後に、現在山田さんが力を入れていることについてご紹介します。2012年に山田さんは、一般財団法人山田昇記念財団を設立し、その功績が認められ、公益財団法人山田昇記念財団として認定を受けます。子供の健全な育成や災害支援に力を入れる他、幼稚園や老人施設の送迎用バスにドライブレコーダーを導入するアシストを行うなど、地域貢献に一役買っており、今後の活動に注目です。

荒井正昭(オープンハウス社長)どんな人物なのか? 年収や資産、経歴を公開!

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「東京に、家を持とう。」をキャッチフレーズに東京での活動が目立つオープンハウス、織田裕二さんや長瀬智也さんがCMに出演していることでもおなじみですが、そのオープンハウスで代表取締役社長を務めるのが荒井正昭さんです。最近ではアメリカ不動産事業に乗り出すなど順調そのもの、オープンハウスの快進撃に注目があります。
1965年10月29日、令和元年に54歳を迎える荒井正昭さんは、群馬県の出身です。家は不動産業を営み、週に2日しか働かない父親を見てサラリーマンという発想がなく、中学時代は司法書士を目指していたという荒井さん。その後、上京すると勉強より遊ぶことが楽しくなり、東京での生活をエンジョイしたかった荒井さんは1987年不動産会社の営業マンとして働き始めます。


とはいえ、司法書士の夢はまだ諦めておらず、ここで結果を出しつつ専門学校の学費を稼ごうとしますが、その不動産会社でトップの成績を叩き出したことで考えは変わります。今よりももっと成長したかった荒井さんは10年で会社を辞め、株式会社オープンハウスを立ち上げました。前にいた会社より1店舗多い会社にする、それが当初の目標でしたが、センチュリー21に加盟し、加盟店売上全国1位を3年で達成するなど、当初から破竹の勢いを見せます。

ここで目標が日本一の不動産会社というものに変わり、2013年には東証一部への上場、将来的には売り上げ1兆円を目指すなど、目標は高く、それでいてかなり前向きなのが荒井さんの特徴です。しかし、35歳になるまでは何が何でも上を目指すというわけではなく、ある程度の収入を得られればそれでいいという発想だったようです。その一方、新卒採用をしていく中、会社が大きくならないと新卒採用した社員のポジション、肩書きが与えられないことに気付き、会社を大きくすることの意義をその時感じ取ります。
株式会社オープンハウスの急成長の陰には、荒井さんの経験があり、最初に入った不動産会社が不動産の仲介をする会社で、その時に顧客のニーズをとことん知ることに。そのニーズを知る中で、このご時世は通勤に時間をかけないことが優先順位的に高いことを把握します。「東京に、家を持とう。」はまさにそのニーズに応えたキャッチコピーでした。

2008年に発生したリーマンショック、これにより多くの産業が大打撃を受けることになる中、株式会社オープンハウスだけは、急成長を見せます。その理由もまたリーマンショック。大黒柱とされた父親だけの稼ぎでは少し足りないものの、母親が働きに出ることで生活水準を保て、それでいて通勤がしやすい都内に住まいを置く世帯が増えます。このニーズをうまくつかんだ結果、急成長につながったというわけです。

 

柔軟な発想ができることも荒井さんの強みであり、株式会社オープンハウスでは、普通の不動産業者が積極的には仕入れようとしない変わった土地を仕入れようとします。土地の形がいびつなところは売れない、そんな認識を持つ業者が多い中、荒井さんは全く違う考え方をします。自分の実家の土地がいびつな形をしていたらさほど気にしないというものです。電車がよく通るところなど、本来であれば敬遠するようなところであっても、通勤しやすければそれでいいと考える人が増えている状況をしっかりと認識しています。

 

結果的にオープンハウスはセンチュリー21とのフランチャイズ契約を解消し、自社ブランドで営業するにまで至ります。それが2012年9月のことで、株式上場はわずか1年後。東京での活動だけでなく、2015年には大阪と名古屋にオフィスを設置し、2016年にはアメリカのテキサスに会社を設立、2017年には富裕層向けのサービスを開始、2018年にはハワイに会社を立ち上げ、福岡にもオフィスを設置するなど、その勢いは留まるところを知りません。2018年には経済誌フォーブスから、アジアの優良上場企業50社に選ばれるなど、その活躍はアジアでも注目されるレベルにまで発展しました。
最後に、荒井さんの実行力の高さについてご紹介します。2013年、東証一部上場の記者会見で、10年以内に売上高5000億円を目指すと公言します。その結果、6年でその数字を達成し、有言実行ぶりをアピールします。一見すると無理そうな数字でしたが、荒井さんは、できないことは言わないと言い、自分では行動を起こさず、他人の行動にケチをつける、最近の評論家ぶった考え方をする人たちに警鐘を鳴らします。何かを宣言するからには結果を残す、それが荒井正昭さんの流儀です。その流儀は間違いなく社員にも伝わっており、志が高く、一見すると難しそうな目標を朝礼で宣言するそうです。宣言をすれば目標をクリアするために何かしらの工夫をする、それによって成功を収めればそれが自信になるはずだ、荒井さんの考えが的を射ているからこそ、株式会社オープンハウスは他が低迷をする中で勢いを落とすことなく、売上高1兆円という夢のある数字に向かって歩みを続けます。