長谷川素美 株式会社メディカ出版

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世の中には様々な専門誌が存在しますが、その中でも医療業界を中心とした雑誌を発行しているのが株式会社メディカ出版です。そこで代表取締役社長を務めるのが長谷川素美さんです。1951年生まれ、今年で69歳を迎える長谷川素美さんは北海道釧路市の出身です。実家は材木行を営んでいた長谷川素美さん、相模女子大学を卒業すると、超大手ともいうべき半導体大手、東京エレクトロンに就職します。そこで旦那さんと結婚し、1977年、メディカ出版を創業します。そのきっかけとなったのがラマーズ法の普及の手助けでした。無痛分娩法であったラマーズ法はまだ日本では一般的ではなく、これを広めてほしいと医師に求められます。年齢を重ねた助産師が一生懸命勉強する様子を見て、自分たちも支えたいと起業に至ります。


起業した当時、すでに医療を取り扱う出版社が多くあり、いわば後発だったメディカ出版。その一方、世界の主流となっている医療の技術や知識は四半世紀遅れて日本にやってくると考え、先回りして紹介するような形にしました。このように医療に関係した出版に一本化しましたが、2001年旦那さんが亡くなったことで、長谷川素美さんが社長に就任。積極的な経営を行っていきます。


メディカ出版では心電図の学習用教材も販売しており、主力商品の1つでしたが、肝心の教材は難解で、分かりにくいものでした。これをわかりやすくしたい、そこで考えたのが心電図をゲームにするという発想です。当時ゲーム機で英語を学ぶ中学生がニュースになっており、これを参考にしました。どれだけ心電図をわかりやすくし、本を出しても出しても売れていくというのはいいことばかりではなく、完璧には理解できないことを意味している、そんな中で、わかりやすい心電図のゲームは飛びように売れ、全7シリーズで21万本も売れる大ヒットを飛ばします。このヒットを今度はiPad専用の看護教科書の開発に活用、本にすれば30キロ以上になるものが集約され、こちらもヒット。旦那さんが遺した会社を見事に大きくさせて、次につなげようとしています。


長谷川素美さんの年収ですが、資本金などから考慮すると1000万円を超えている可能性が高いです。実際はもっともらっていることも言えそうです。間違いなく社会貢献、特に看護業界への貢献度が非常に高いことから、もっともらってもいいと思う人が多いかもしれません。

角井美穂 角井食品株式会社

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パン屋さん向けのサンドイッチ、コンビニや駅で販売されるおにぎりや惣菜などを手がける角井食品株式会社。その会社で社長を務めるのが角井美穂さんです。高校時代から留学し、甲南大学時代にも海外に渡っていた角井美穂さん、大手の食品メーカーで4年間働くと、角井美穂さんの父親が経営していた角井食品に入社します。当初軽い気持ちで入ったものの、毎日目まぐるしく動き回り、若くして常務となり、父親の横について経営を学んでいく中で、考えが大きく変わっていきました。


父親が70代に突入する中で、さすがにフットワークに鈍りが出てきたことで、会長になってもらって大事なことを相談する形がいいのではないかという雰囲気になり、角井美穂さんが40歳の時に社長に就任します。経営理念がしっかりとあったことや、新しいことをしたいという思いがいい意味で角井美穂さんの中になかったため、周囲の意見と自分の意見を考慮しながら物事を考え、経営できているようです。過去には売り上げの大部分を占める企業との取引がなくなるという一大事を経験しますが、1つの会社に依存するシステムはやめようと色々と変革につなげられ、成長できたことも角井美穂さんをより強くしました。


そんな角井美穂さんにも試練が訪れます。それは自らが大病を患ったためです。1ヶ月の入院、そして退院後も食事が満足にできないため、どんどん痩せていきます。その過程で職の大切さ、健康につながる食品の開発などに力を入れて生きたいと考えるようになります。現在は誰も取り組んでいないものに取り組んでおり、添加物を使わなくても日持ちする食品などを考案、子育てをしながら働くお母さんに対して、学童保育ルームを作り、地元のタクシー会社と契約して小学校から会社まで送迎するシステムを作り上げました。コストよりも社会貢献、そして仕事への情熱。軽い気持ちで入社してから10数年経つ中で、角井美穂さんの気持ちはより強いものへと変わっていきます。


角井美穂さんの年収ですが、資本金や売上高から考えると1000万を超えている可能性が考えられます。社長になってまだ数年、ケータリングのサービスなど新たな事業も展開するようになった角井食品株式会社。大きな病気を患ってしまったことが、逆に仕事に対する情熱を呼び起こすことにつながった角井美穂さん。会社そのものの成長だけでなく、新たな商品などにも注目が集まります。

木下志磨子 京都しまうま堂株式会社

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生花はとても美しく、花束にすると女性にとても喜ばれますが、生きている分、時間が経てば枯れてしまうのが残念な限りです。これを長期間保存できるように加工したものがプリザーブドフラワーで、こちらも女性に人気を集めます。そのプリザーブドフラワーの製造販売を展開しているのが京都しまうま堂株式会社の木下志磨子さんです。子供のころにいじめられた経験を持つ木下志磨子さん、海外に出たいと考え、一度はアメリカへの進学を決めますが、大学と同じエリアで日本人の留学生が殺害される事件が起きたことで流れは変わり、日本の大学へ進学。それでも海外で働きたいと考えるも、時代はバブル崩壊による経済低迷で就職氷河期。やむなく広告代理店で働き出します。


段々と社会に対する期待が諦めに変わる中、好きなことを仕事にしようと考えます。それが花でした。まずはアメリカに渡り、実際に花屋で働き、花屋事情を知ります。その中で、お花に合うワインが花屋に置かれているなど、日本とはまったく違う状況に驚き、それを日本に持ち帰り、プリザーブドフラワー専門店を立ち上げました。アメリカは国土が広いため、実際にお花を贈る際にはプリザーブドフラワーの方が効率的でした。芸術性も高められるため、これなら自分でも勝負になると考え、プリザーブドフラワーを選んだというわけです。


実際に立ち上げてから苦難がいくつかあり、そもそもプリザーブドフラワーを知らない人たちが多く、スタートから躓きます。それでも商品そのものの良さを伝えていくことで、徐々に認知度を高めていくことに成功します。とはいえ、認知度を高めて人気が出ても、今度は自分だけしか社員がいないため、制約が色々と出てきたという問題も。雇う余裕もない中、友人に協力をしてもらいつつ、求人募集をして働いてもらっていたところ、労務トラブルに発展。大きな挫折を味わいます。しかし、そのことが皮肉にも株式会社化につながり、京都しまうま堂株式会社が設立されました。


木下志磨子さんの年収ですが、立ち上がってまだ数年ということもあり、年収自体はそれほど多くはもらっていない可能性が考えられます。ただし、プリザーブドフラワーの需要や認知度は年々高まっており、大きく業績を伸ばすポテンシャルは備わっているはずです。誰もが知るヒット商品や需要の獲得などができるようになれば、その名前はもっと多くの人に届くことになるはずです。

神田尚子 株式会社タガヤ

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京都でブライダル事業を展開する他、東京にも進出を開始、近年はハワイ挙式のプロデュースを行うようになったのが株式会社タガヤです。その会社で社長を務めるのが神田尚子さんです。1966年5月18日生まれ、今年で54歳を迎える神田尚子さんは大阪府の出身です。定年まで大手企業で働き続け、キャリアウーマンとしての姿を見せてきた祖母に感銘を受けます。短大の観光学科にいたころ、ハワイのホテルで感動的なサービスを受けたことで、ホテルマンになろうと決意、ホテルへの就職を決めます。


ホテルの先輩と結婚するも、知り合いばかりになってしまい、リセットしたくなり離婚。どうせなり貯金もなくそうとニューヨークに渡り、アメリカを横断することに。その間に様々な出会いがあり、身も心もゼロにリセットされ、日本に帰国する際、経営者セミナーに参加。そこで株式会社タガヤの創業者と出会い、就職します。当時は婚礼に関する貸衣装のみを扱っていたものの、和装から洋装への転換期、創業者自身も悩みを抱えた状態で神田尚子さんが飛び込んできた形です。そんな中で入社わずか2日で契約を獲得、気合を入れてがんばった結果、わずか1年で売り上げを倍増させたために、最高執行責任者に任命されます。


2002年には教会を立ち上げ、チャペル運営や結婚式のプロデュースなどを手がけるようになり、その活躍も評価されて2012年に社長に就任。ゼロからはじめたことで絶対に頑張らなければならないと気合が入り、結果的に大きく成長することができた神田尚子さん。入社時わずか6人だった株式会社タガヤは現在300名を超えるスタッフに支えられています。神田尚子さんの頑張り、そして、入社させて早々に将来的に社長にさせたいと決断した創業者の判断なども、大きく関係しているはずです。


神田尚子さんの年収ですが、売上高が30億円近くあるなど、それなりの成長を見せており、年収自体は1000万円を超えている可能性があります。結婚式のプロデュース以外にも色々なことを手がけている株式会社タガヤ。結婚式は一生に1度のこと、そう思っている人が多い中、結婚式を何度も挙げるという人が出始めるなど、多様化しつつあります。この多様化の波をどのように乗り越え、成長につなげていくのか。神田尚子さんがここまで見せてきた頑張りがどのように生かされていくのか、そのあたりにも注目が集まります。

樽川久夫 アルファ電子株式会社

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医療機器や電子機器の開発や設計などを行い、すべての工程に携わって生産を行うアルファ電子株式会社。その会社で代表取締役社長を務めるのが樽川久夫さんです。NHK日曜討論にも登場するなど、経済界でも知られる存在である樽川久夫さん、日本大学工学部を卒業すると、父親の会社に入ります。本来は樽川久夫さんのお兄さんが承継するはずでした。しかし、お兄さんがそれを拒んだために大混乱、これを受け止める形で樽川久夫さんが引き受けることになりました。とはいえ、自分で色々なことをやりたかった樽川久夫さんは親の助言を受けず、一度は独立を決断します。しかし、この動きを見た父親が折れる形で事業を引き継ぐことに。


決して順風満帆だったわけではなく、バブル崩壊どん底を見て、そこからなんとか這い上がったものの、再びどん底を経験し、2回会社を潰しかけることを経験しています。ただ、2回とも自らのおかげではなく、周囲の人たちのサポートがあったから立ち直れたと樽川久夫さんは語ります。この要因として、小学生レベルの必死さを挙げており、ガムシャラに向かっていくことが結果を生んだのではないかと考えています。また、会社での営業品目をふやす決断をとり、社員がそれぞれに専門分野を持つような形にしました。業績が低迷に、様々な場所へ派遣に行っていた社員たちのがんばりもあり、その会社が顧客となり、人材派遣のサービスもアルファ電子株式会社を支えることになります。


社員全体の6割が女性であるアルファ電子、管理職の3割が女性となっており、女性活躍が求められる社会では理想のような会社ですが、これも樽川久夫さんが試験的に抜擢したところ、大成功したためです。管理業務に女性は向いている、これを受け、管理業務に関するポジションに多くの女性を抜擢するようになります。女性をリーダーにする一方で、その家族にも気を配る樽川久夫さん。3年以上の休暇をとる女性などもいる一方、子供を優先する女性社員もいるなど、一見すれば大変そうですが、それも相互フォローの形で乗り切っています。


樽川久夫さんの年収ですが、大企業レベルではないものの、1000万円以上の年収は確保していることが考えられます。現在の政権とも距離が近く、経済誌などにも登場する機会が出てきた樽川久夫さん。父親と衝突をし続け、2度も経営危機を経験した中でその1つ1つが樽川久夫さんを大きくさせたことは確かです。

飯島延浩 山崎製パン株式会社

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ヤマザキ春のパン祭りや、デイリーヤマザキなど、全国のスーパーマーケット、コンビニなど必ずあるといってもいいのが山崎製パンの商品。世界第2位の製パン企業でもある山崎製パン株式会社代表取締役社長は、1979年から40年以上飯島延浩さんが務めます。1941年7月28日生まれ、今年79歳となる飯島延浩さんは千葉県市川市の出身です。戦後間もない時期に誕生し、義理の弟の姓だった山崎の名前で会社の立ち上げを行ったという歴史があり、創業者である飯島藤十郎氏は飯島延浩さんの父親です。一橋大学経済学部を卒業すると父が働く山崎製パンに入社、その後イギリスに留学し、1970年には取締役を務めます。


しかし、この時期になると父の藤十郎氏は病気に。藤十郎氏の弟が社長となりますが、藤十郎氏が回復してもその座を譲ろうとせず、お家騒動が勃発します。飯島延浩さんも解決に向けて尽力しますが、なかなか解決せず、その矢先、工場が火災になり、生産設備すべてを焼き尽くす憂き目を見る、まさに最悪の時期。藤十郎氏もその弟も会社を去って、飯島延浩さんが社長に就任します。海外の設備を積極的に導入し、製品開発を行うなど、攻めの経営を続け、工場をフル稼働させてすぐに商品を全国に届けるという仕組みも山崎製パンを世界レベルの会社に成長させました。


創業70周年の時に新たな経営方針を示した山崎製パン、そこでは現在1兆円企業である山崎製パンを創業100周年の頃には2兆円企業にさせるという目標を掲げます。当然ながら後身の指導も必要であり、飯島延浩さんの次を誰が務めるのか、そのあたりも問題になりそうです。熱心なクリスチャンであり、天の啓示で決めることもある飯島延浩さん、その決め手は天啓なのか、それとも。2兆円企業の切り札がどうなるか注目です。


飯島延浩さんの年収ですが、2017年12月期の役員報酬は2億3500万円でした。年々役員報酬は増えており、翌年もこれ以上の金額をもらっている可能性が高いです。株式は366万株を保有しており、時価総額は70億円程度となっています。1株あたりの配当は22円なので、配当だけで8000万円ほどもらう形です。年収は3億円を超えており、バランスよく年収をもらっています。コメよりもパン、日本でもそんな食生活になっている今、高級食パンの需要が増える中で山崎製パンがどんな一手を放つのか、気になります。

鈴木修 スズキ株式会社

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国内の自動車や二輪車の販売台数はトップクラス、特に軽自動車で存在感を発揮してきたスズキ株式会社。会長の立場で現在も代表取締役を務め、現役なのが鈴木修さんです。1930年1月30日生まれ、既に90歳となった鈴木修さんは岐阜県下呂市の出身です。中央大学法学部を卒業した鈴木修さんは現在の愛知銀行に就職します。その後、スズキの2代目社長の娘婿としてスズキに転職。1963年にはスズキの取締役となり、1967年には常務、1973年には専務となり、社長になったのは1978年、鈴木修さんが48歳の時です。


当時のスズキは自動車の排出ガス規制に関して出遅れがあり、売上が芳しくない時代でした。当時専務だった鈴木修さんはこれを立て直し、社長になってから現在もそのシリーズが人気を集めるアルトの開発、販売を先導します。主に軽自動車に関してブランド力を高め、1993年にはこちらも現在人気のワゴンRを登場させるなど、ロングランの軽自動車を数多く世に送り出しています。海外進出を積極的に行っており、インドなど経済新興国や自動車が国の主幹産業であるアメリカの企業とも提携を行うなど、世界のスズキの名を轟かせます。その一方、後継者として考えていた人物たちが健康問題で次々と断念され、2008年には再び社長に。現在は鈴木修さんの息子を社長に据え、自らは会長に下がりました。


高齢になった今でも、全国にあるスズキの店に足を運んでは、直接現場の声を聞くだけでなく、その店が抱える問題や販売戦略、商品の改良などに取り組んでいます。舌鋒鋭く、現在でも時に刺激的な言葉を使って社内外に奮起を促すなど、90歳となった今でも現役でいられるなど、元気な一面を見せます。2019年の年末、掛川市で行われた軽トラ市には、鈴木修さんも会場を訪れていました。ここまで第一線で働き続ける人はなかなかいません。


鈴木修さんの年収ですが、2018年3月期の役員報酬は2億2000万円でした。90歳になった現在もそれだけの金額をもらっており、同世代でこれだけ稼ぐ人もそういるものではないでしょう。34万株を保有しており、時価総額は15億円ほど、配当は1株75円のため、だいたい2000万円ほどとなっています。創業者でありながら株をそこまで持っているわけではないのが意外でしたが、だからこそ非常にフットワークが軽いのかもしれず、そこまでお金に執着していないことも考えられます。