菰田正信 三井不動産株式会社 代表取締役社長

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2011年から三井不動産株式会社代表取締役社長を務めるのが、菰田正信さんです。大学卒業後から現在に至るまで三井不動産一筋、実に40年以上1つの会社に属し、様々な分野で支え、現在では多くの社員を引っ張っていく存在です。

1944年6月8日生まれ、令和元年には65歳となっている菰田正信さんは東京都の田園調布で生まれます。父親は会社の社長をしており、姉と弟の3人兄弟の真ん中にいましたが、小学3年生の時に菰田さんのお父さんが亡くなってしまいます。その後、現在の筑波大附属高校に入学、東京大学法学部に進学し、就職を模索する時期を迎えます。
1970年代には高層ビルが建ち始めており、街づくりに関連する仕事に就きたいという思いで三井不動産に就職。三井不動産は日本初の超高層ビルである霞ヶ関ビルを完成させたことでも有名です。最初はビルディング事業部に配属され、その用地班に入ります。数年後には福岡へ転勤し、住宅の分譲や用地買収の仕事を行い、再び東京へ戻り、今度は人事部で採用担当の仕事に。

1988年、日本はバブル絶頂の時代、人手が足りないということで採用枠を100人という判断が上層部から出る中、果たしてそんなに必要なのかと3分の2の67人に抑えた菰田さん。しかし、バブル崩壊でその67人ですら、多すぎると不満が出たことで長い目で見る経営が必要だという考えに至ります。

 

その後、転勤を経て1999年には業務企画室長に就任しますが、これまでとは全く違う経営の仕事に戸惑いを感じたものの、当時の社長に、最初に大きな絵を描くよう教えられます。先に大きなビジョン、目標、夢を掲げ、その中で何をしていくべきか、それが大切であると知り、業務企画室長に就任してもまずは大きなビジョンを決める作業を行います。
この当時は企業内でリストラが頻繁に行われ、三井不動産も例外ではありません。また菰田さんは不良資産の処理も任せられ、不動産価値の下落に歯止めがかからなかった1999年、何を処理するかで頭を悩ませます。大きな絵を描かなければならないのに、取り巻く環境は最悪に近い、その中で何をすればいいのか、この時期の経験が社長になってから役に立つことに。

 

その後、経営戦略に長く身を置き、2005年には執行役員となりますが、翌年子会社である三井不動産販売に出向し、自分たちで住宅を作り、その販売も手がける製販一体化に向けた活動を活発化させます。誰がその仕事を行うのかという議論がまとまらず、これまでもそのような局面で任されてきた菰田さんに白羽の矢が立ち、2006年10月には三井不動産レジデンシャルが誕生、取締役常務執行役員となりました。
そして、2011年6月、菰田さんはついに三井不動産代表取締役社長に就任します。この時期は東日本大震災が起きて間がなく、リーマンショックからようやく脱出した時期でもあります。不動産業界は相当な不安定な状態でしたが、グループ中長期経営計画を打ち出すなど、競争力強化、グローバル化に全力を注ぐ姿勢を打ち出します。
近年話題を集めるのがららぽーとの存在です。ららぽーとは1981年に船橋に誕生しましたが、それ以降はららぽーとの出店にあまり積極的とは言えませんでした。しかし、菰田さんが経営戦略を考えるようになる中、2000年中期からららぽーとの出店が本格的に行われ、東京や名古屋、大阪、その周辺エリアに続々とららぽーとをオープンさせます。その一方、コレド日本橋を開業し、日本橋を復活させようという動きも強めています。元々日本橋がルールである三井不動産、その日本橋バブル崩壊で寂しくなっていく中、盛り上げていこうとし、コレド日本橋を開業させます。

 

最後に、菰田さんが部下と接する姿勢についてご紹介します。昨今、企業ではパワハラ問題が見られますが、菰田さんは積極的に部下を叱ります。それでも部下は萎縮せずに、注意を受けた部分を修正するなどして再び提案を行い、満足のいくものを提示。部下を率いる際、毎週徹底的に会議を行い、一体感を重んじ、部下から信頼されるにはどのような存在であるべきかを考え、時には自らも積極的に動いて、部下の前で汗をかきます。その姿を見て報いなければならないと部下が感じるため、たとえ叱られたとしても萎縮はしません。

 

現在、パワハラなどでどのように部下に接していけばいいかわからない中間管理職の人にとっては参考になる話と言えます。こうした部下との関係は今でも続いており、その場で叱ることをモットーにし、たとえ相手がいようとも容赦なく叱り飛ばす菰田さん。普通の関係であれば、恥をかかされたと根に持つ部下がいてもおかしくありませんが、菰田さんが常に一体感を重んじ、大きな絵を描かせることをさせているため、同じ絵を見ながら仕事をすることがどれだけ大事か、部下も分かっています。同じビジョンが共有できていれば、どれだけきつく怒ってもパワハラとは感じられない。令和の時代だからこそ知っておきたい考え方です。